〇〇高文連美術展の画題札問題
〇〇高文連美術展の画題札も、正直言って読みにくいですよね。
全校に同じ画題札のカードが配られているクセに、プリンターでそのカードに印刷する学校もあれば…いまだに生徒一人一人に手書きでカードに書かせてる学校もあります。
結局…学校によってマチマチなので、読みにくいったらありゃしない。
観覧者の本音
観覧者は…読みにくい画題札に出会うと、とたんに絵を観る気も失せるんですよ。
面白くなくなっちゃうんです。
もう帰ろうかぁ…ってなっちゃいます。
だって、観覧者の大半は、展覧会全体を楽しむために来てるんじゃないんですから!
みんなの絵を観に来てるんじゃないんですから!
自分の子供(か孫)の作品だけ、見つけられればいいんです。
そのために来てるんです。
観覧者にとって画題札は、自分の子供(か孫)が所属している学校なのか、そうでない学校なのかを判断する目印でしかないのです。
自分とは無関係な学校の作品を観る必要は無い…って思っている観覧者が大半なんですよ。
95%はそういう観覧者って言っちゃっても良いかも。
だからそういう人にとって、判読不明な画題札があると…即、イヤになるんです。
観覧者の行動パターン
受付で『ワタクシ、○○高校の生徒の保護者なのですが、その高校の展示場所はどこでしょうか? そこさえ見れたら、他は興味が無いから帰りますので…』って素直に聞きさえすれば、目的達成までは最短なのでしょうが、保護者ってのは見栄っ張りです。
しかも…仮にも美術部員の親(か祖父母)ですから、一応『展覧会には興味が有りマス』『美的教養は持ち合わせておりマス』…っていうフリをしなければなりません。
なので、入り口から入って一校ずつ、自分の子供(か孫)の所属している学校か、そうでないかの確認をするためだけに画題札を見るのです。絵なんか見ませんよ。
〇〇高文連美術展では、画題札より大きい『学校名が書いてある横長のプレート』も掲示してありますが、大抵の観覧者は、それに気付きません。だって、絵を観てないんですから、プレートに気付くはずないでしょ?
『ここは違う学校だ。あ、ここも違う』
そうやって順路に従い、ひたすら画題札と格闘するのです。
そんな中、判読不明なほど雑な、手書きの(あるいは極端に小さい字で印刷された)画題札に出会ったら、短気な保護者(特に祖父母)は帰っちゃいますね。
実際にあった悲劇
孫に『お前の作品を探してたんだが、見つけられないし、札はどれも雑だったり字が小さかったりで読む気が失せたから、イヤになって帰っちゃったよ』って、あとで電話するんでしょう。
県立近代美術館に陳列されるなんて…お孫さんにとっては晴れの舞台だったのに、見てほしかった祖父母には見てもらえず…。
これ、悲劇ですよねぇ。
ある年の〇〇高文連美術展なんかは、入り口を入って最初の壁面を使っていた学校の…プリンターで印刷した画題札の字が、美術館の壁面に掲示するには小さ過ぎた…って時がありましたね。
会期中の土曜日、壁面近くには生徒さんが用もないのにたむろしていたため…壁に近寄れない老夫婦が遠巻きに画題札を見てたんですがまったく読めず(その距離からでは3ダースの視力でも到底無理でした)。
孫の学校でないのならここはさっさとスルーしたい。でもひょっとしたらここが孫の学校なのかもしれない。生徒さん達がどいてくれたらもっと近寄って確認しよう…。でもなかなかどいてくれそうもない…。
そんな感じだったので、その現場にたまたま遭遇した3ダースが学校名プレートを読んで学校名を教えてあげましたよ。
運営側は観覧者の要望に気付けない
観覧者は健康で活発な高校生ばかりじゃありませんからね。むしろ高校生は観覧者ではありません。彼らは出品者の視点しか持ってません。顧問もそうでしょう。
そして、ホンモノの観覧者(出品者の両親や祖父母)は、受付や本部に苦情やクレームなんかは言って来ません。つまり、運営側は永遠に観覧者の要望には気付けないのです。
観覧者を代表して
観覧者を代表して、3ダースが観覧者の意見を代弁いたしましょう。
観覧者の要望は、『手書きの読みにくい画題札なんか禁止にし、全館統一の判読しやすい印刷タイプの画題札にせよ!』です。
展覧会にはお年寄りも、車椅子を使ってる人も来るんです。車椅子を使ってる人は、簡単に壁面まで近寄れない場合もありますよね?
その、来てくれたみんなに、不自由無く作品を見てもらう。
そして不自由無く画題札を読んでもらう。
それが出来て、初めて成功って言えるんですケド、今の〇〇高文連美術展の実行委員には運営側の視点と出品者の視点しか無いんですよ。
観覧者の視点はゼロ。
観覧者の存在を一切無視した運営なんです。
画題札は観覧者のためのもの
まず、一刻も早く画題札を読みやすく統一書式・統一書体(つまり、印刷物)にすべき。
『学校の個性が失われる』とか言う顧問もいるでしょうが、そんなのは自校の文化祭でやってくれよってハナシ。
って言うか、作品の中で個性を出しゃあいいじゃん!
画題札は出品者のための物でも運営側のための物でもありません。
『観覧者のための物』です!
その画題札を使って学校の個性を表現しようって考えが、子供じみてます。
そんな使い方をしちゃあいけないんです。
個性丸出しの画題札なんか、出品者の単なる自己満足でしかない。
こういうようなことを主張する教員は集団行動に入って来てはいけませんよね。
何度でも言います
何度でも言いますが、画題札という物は観に来てくれる観覧者のために掲示する物なのです!
もし自己主張のある画題札を掲示したいのなら、統一の画題札の横なり下なりに、並べて掲示すればよろしい。
ただし、会場に来る99.99999%の観覧者は…そんなモノ見たいとは思ってませんけどね。
醜悪な画題札の例
去年だったか一昨年だったか、どっかの高校の手書きの画題札の題名欄に『意味なんか無い、意味なんか無い、意味なんか無い…』みたいな戯言を2行にわたって細かい字で延々と書いている生徒がいましたが、画題札を読んでほしくないなら作品なんか出品しなければいいのに。
もはや、その画題札は醜悪でしかない。
観に来た人を不快にさせる画題札しか書けないんだったら、発表するのは自校の文化祭までにして、〇〇高文連美術展になんか参加すべきではないんですよ。
みなさんは民間の企業等の経験をお持ちの方は少ないかと思いますが、民間の入社試験などで志望動機を書く欄に『意味なんか無い、意味なんか無い、意味なんか無い…』なんて細かい字で延々と書いていたら『キミなんか我が社に来ないでいい! 帰れ!』って言われますよ。
つまり、その醜悪な画題札を書いた生徒は常識がないんですよ。
常識偏差値15程度かな。
本当に情けない。
〇〇高文連美術展に参加しないでほしい。
SNSに迷惑行為の動画を上げてる連中と変わりないですよ。
人様に見ていただく、読んでいただく物を、単なる自己満足の場にしちゃってる。
その学校がどこの学校だったか忘れましたが、たぶん幼稚園児が混ざってたんでしょうね。そうとしか思えない。
あるいは顧問がマトモじゃなかったのかな。
(あ、ここで読者の皆さまの大きな拍手喝采が聞こえてまいりました 😆)
まとめ
全国から6,000点も作品が集まる展覧会を、ほぼ一人で切り盛りしながら…観覧者のために読みやすい画題札を作り上げた全日本学生美術展のリーダーさんを見てると、観覧者の視点が欠落したまま、いつまでも各校の好き勝手に画題札を書かせていて…何の反省もない実行委員のみなさんが情けなく思えますねぇ。
せめて、教員も『観覧者の視点』を持ちましょうよ。
まぁ、たぶん無理なんでしょうけど。
【第37回終わり】














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